秋の気配が近づいてきていた。
 陽が沈んでしまうと半袖でいるのが少し肌寒く感じられる九月半ばの夜に──。
「……もう夏休みも終わるというのになにが悲しくてこのメンバーで飲んでるのかね、俺らは」
 と、深く深く息をついたのは酒井庸介だった。酒井に悲しいと言われてしまった俺と三上と安曇は思わず互いに顔を見合わせている。
 ビアグラスを片手に料理の運ばれていないテーブルに突っ伏して、不幸だ、なんて呟いている酒井を見下ろして、俺は呆れた。
「アナタね、呼び出しておいてその言い草はどうなの」
 まったくだわ、と安曇がカクテルを傾けながら続け、その隣で三上が苦笑を洩らしている。
 そう。今日は「飲もうぜ」という酒井からの電話でこうやって集まることになったのだ。休みだというのにわざわざその呼び出しに素直に集まった俺たち三人は、我ながら付き合いがいいというべきか、ヒマ人ばかりというべきか。──まあ正直言えば、今夜の俺は今向かいに座っている三上秋彦と映画デートの約束をしていたのだから、決して本当にヒマだったわけじゃないんだけど。酒井の電話のために、俺と三上はその約束を順延してこの場に来ているわけで。
 だというのにその言い草なのだから、まったくむくわれない。
 俺はいまだにテーブルに伏せている酒井を横目に、煙草を取り出し唇にくわえた。
「しかもさ、昨日はパチンコで五万勝ったってすげー喜んでたのに、その浮き沈みはどうなの?」
「浮いたから沈むんだろ! 五万勝って使い道はおまえらと飲むことだけかと思うと空しさ倍増だ」
 なるほど。理に適った言い分だ。──なんて感心してる場合ではなく。
「いいじゃない、電話一本で集まってくれる友達が三人もいるだけ幸せもんだよ、酒井は」
 なんて心優しいなぐさめを三上が口にする。まったくだ。
「そうだよ。むしろ酒井の愚痴に付き合う俺らに感謝してもらいたいね」
「──感謝はするけど、」
 俺たちの言葉に身体を起こした酒井は改めて俺たち三人を見回して──重く息を吐き出した。
「……花がないんだよな、花が」
 ため息まじりの酒井の呻きに、憤然と抗議の声を上げたのはもちろん紅一点の安曇里佳である。
「ちょっと、あるでしょココに! そのセリフは私に失礼だっつーの! こんな可愛くてイイ女が一緒に飲んでやるっていうのに、なにそれ」
「おまえは自分が花だと思ってんのか!」
「花じゃなきゃなんだっていうのよ」
「……雑草だろ、雑草。だって強いじゃん、雑草。小さくて。いいよね雑草、俺いいと思うなあ雑草」
「雑草雑草連呼しないでよ!」
「そうだよ、酒井。雑草にだって名前があるんだから、全部をひとくくりにするのはよくないよ」
 冷静に言い足した三上を安曇が振り返る。
「──それって全然フォローになってないじゃない!」
 俺たちは声を上げて笑った。

 俺の名前は小嶋眞、二十一歳になったばかりの大学生である。酒を愛し、パチンコと麻雀を友に、バイトと学業をわりと真面目にやって、かつラブな相手もいる大学三年生──というのはわりといい身分だと俺は思う。こうやって気軽に飲んで、バカできる友人にも恵まれて。俺は幸せものだ。
 全国に数ある大学の中で同じ大学同じ学科に入り、こうやってバカな飲みに付き合えるような心を許せる友人と出会えたことは、ある意味運命的なんじゃないかと俺は思っている。みんなのうちの誰かがなにかひとつでも選択を違えていたら、俺は酒井と酒を飲み交わさなかったかもしれないし、安曇と親しくなんかならなかったかもしれないし、……なにより三上に出会っていなかったかもしれない。
 三上と出会い、三上と恋に落ち、そして三上と付き合うようになり──だからこそ今の俺がある。
 そう思うと、俺はこの出会いを奇跡のようにさえ感じるのだ。こうしてみんなで会う時間が惜しくなるほどに。
「ああ、夏が終わる……」
 ……とはいえそんな俺の想いとは関係なく、酒井はこの夏を惜しむ声を洩らしている。
 酒井の愚痴は要するに、今年の夏こそはカノジョとバカンス! と意気込んでいたにも拘わらず結局はバカンスどころかカノジョさえいない夏休みだったという、それだけの話である。まあ本当のところ、なんだかんだ言いつつも酒井は今の──酒と麻雀とパチンコばかりの──状況にわりと満足しているのを俺は知っているのだけど。いうなればこれは時々周期的に訪れる流行風邪のようなもの。 “彼女欲しい熱”なのだ。
 まあ、そんな気持ちも半年前の俺ならきっと共感できたんだろうけど、残念ながら今は共感できない。
「そんな歌なかったっけ? 夏が終わるって」
 俺は酒井の言いたいことを充分に理解していながら、話をそらした。カウンターにいる店員にビールのお代わりを頼みながら、三上と安曇に話を振る。
「ねえ?」
「あったっけ? だれ?」
「夏が来るっていうのはあったけど」
「あったあった!」
「……聞いてねえし俺の話。感謝されたいならちょっとは話聞けよ!」
 酒井をよそに盛り上がる俺たちに、彼はそんな不満げな声を上げた。が、まるでそんな抗議を却下するかのようなタイミングで、「お待たせしました」という落ち着いた声とともに料理が運ばれてきて、彼は反射的に続ける言葉を飲み込んでいる。
 目の前に並べられる料理はどれもこれもおいしそうだ。スパゲッティにピラフ、リゾット……。この店は、アルコールはビールから日本酒、焼酎、カクテルなど各種そろい、ムーディーな雰囲気があるにも拘わらず、料理もボリュームがある上においしいことで評判のお店なのだ。腹をすかせていた俺たちはとりあえず目の前の食事を最優先にして我先にとフォークを手にしている。酒井もまたしかりだ。……うーんうまい。つくづくここの海老ピラフは絶品だ。
 運ばれた明太子スパゲッティを勢いよく頬張りながら酒井はつまらなさそうに口を開いた。
「……てゆうかさ、おまえらは空しくならないのかよ? オンナっ気ない夏って」
「…………」
 おまえらと言われた俺と三上はさりげなく視線を交わしている。
 体面上、ここにいるオトコ三人は──つまり俺も三上も、カノジョがいないことになっている。まあ実際カノジョはいないわけだけど、きちんとお互いというステディな相手がいるわけで。直球でそんなことを聞かれると、とっさになんて返せばよいのか俺は戸惑ってしまう。
 言葉に詰まった俺とは違い、三上は如才なく笑った。
「あのね。休みだっていうのに顔を合わせるのはオトコばっかりで、することといったら麻雀か飲み会だなんて、空しくならないわけないでしょ」
「……明るく空しさを強調するなよ」
「って、アンタたち、休み中もそんなことばっかりしてたの?」
「すいませんねえ、そんなことしかすることなくて!」
 安曇のツッコミにいっそう空しさを感じたのか、言い返して酒井はがっくりと肩を落としていた。そんな酒井を見やりハハハと乾いた笑いを返しながら、俺は一心に目の前のピラフをパクつく。
 ──俺と三上が付き合っているということを、酒井も安曇も知らない。
 だからこんな小さな嘘でもついてしまう羽目になる。本当はこんな嘘、つきたくはないのだけれど、俺たちはまだ一番親しいはずの彼らに正直になることができていない。
 あーあ、と飽きずに酒井がため息をついた。
「なあ、今度合コンしようぜ。──なあ安曇、合コンセッティングしてくれよ」
 で。こういうことを秘密にしていると大概においてそんな話になってしまうのだ。
 安曇が海老ドリアをつつきながら首を傾げた。
「えー。……別にいいけど。なにそれ、酒井と小嶋と三上くん?」
「お情けで佐久間も付け加えてやれよ」
「四対四? うーん、バイト先で声かけてみようか?」
 安曇の提案に俺は思わず顔をしかめている。
「安曇シフトの合コン? なんかびみょーだなー」
「なんで微妙なの! ソレちょっと失礼じゃない?」
 正直な思いを口にしたら安曇に怒られた。だってサ、と俺は思わず隣の酒井を振り向いている。
「安曇の友達かと思うと怖くて迂闊に手ぇ出せなくないか?」
「……確かに」
「なによ、合コン一回目で手ぇ出すつもりなのコジィは? うわっ、やらし」
「出さねーよ! て言うか怖くて出せないっつってんじゃん!」
 ──いや、安曇の友達だろうがなかろうが、今はオンナノコに手を出す気なんてさらさらないけどね。
 そう思いつつもなんとなく窺うように斜め向かいに座った三上に目をやれば、にっこりと三上がこれ以上ないといわんばかりの優しげな微笑を向けてくる。……というか、微笑んでいるけど目は笑ってない。なにやら不穏なものを感じて、俺は三上から視線をそらした。
「……いやいや。ボク紳士ですから。そんな、安曇の友達かどうかなんて関係なく、オンナノコに手を出したりなんてしませんヨ」
「だれが、紳士?」
 訝しげに安曇が問い返す。
「俺がだ、俺が」
「なに言ってんの? 紳士っていうのはね、三上くんみたいなひとを言うの。だれかれ構わず口説くようなオトコは紳士って言わないの」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ、別にだれも口説いてねえだろ!」
「口説いてるでしょ、いつも」
「口説いてねぇって!」
「……ホントおまえら仲良いよな」
 延々とかけあい漫才のように言い合う俺と安曇を見て、酒井が呆れた。
「どこが!」
「だれが!」
 ムキになったのは俺も安曇も同時で、そのタイミングのよさに酒井と三上が笑った。
「すげー気が合ってるし」
「やーめーてー。こんなタラシと気が合うなんて思われたくない」
「タラシじゃねー」
「……つーか、俺、昔この二人くっつかねえかなと思ったもんなマジで」
 酒井が素でそんなことを言った。へ? 俺と安曇が? 思わず絶句した俺と安曇が反論の言葉を探している間に、三上がそうだね、と頷いてショットグラスを傾ける。
「俺も思った。結構、今でも安曇、今のカレシと別れたら次は小嶋かな、とか」
「はあ!? おまえ、それ、マジで言ってる!?」
 俺は愕然として三上を見やった。
 三上は涼しい顔をして二杯目の水割を飲んでいたが、そのポーカーフェイスの向こうで俺は三上がそれを本気で言っていることに気づく。……少なくとも会話の流れに合わせた、とかではなく。唖然としている俺を見やって、三上は微笑んだ。──凶悪なほど穏やかな笑みだった。
「だってお似合いだよ?」
「待ってよ、私の意志はどこにあるの、どこに!」
 安曇はついさっき紳士だと褒め称えたその口で今度は三上にそう噛みついている。
「私、今のダーリン愛してるもの。小嶋なんて眼中外よ」
「そう? 小嶋って結構お買い得だと思うよ? フェロモン垂れ流しのところを除けば、誠実だしわりと真面目だしおもしろいし、顔も悪くないし優しいし。……まあ浮気しないかどうかは保証できないけど」
「しない!!」
 って、そこに力を込めて否定している場合じゃなくて。
 なんだ? これはなにかのイジメか? 俺、三上が機嫌悪くなるようなことしたか?
 そううろたえたが、もちろんこの場ではそんなことも聞けなくて──仕方なく俺は笑いに逃げることにする。
「俺、安曇と付き合うくらいなら、酒井と付き合うね。酒井、俺の愛を受け止めてくれ!」
 と勢いよく隣を振り返った途端、あ、と言って酒井は席を立っている。
「俺、しょんべん」
 しょんべんしょんべんと品のない言葉を呟きながら酒井は、俺のことなどまったく気にとめた様子なく店の奥へと向かっている。
「って俺の愛の告白にそれかい!」
 俺はがっくりと肩を落とした。安曇は堪えきれなくなったように吹き出し、腹を抱えて笑い出している。
 くそーと恨みがましく三上を見やっても、三上は平然としているし。自分ひとり言いたいだけ言って──卑怯じゃないか。俺は自棄になって二杯目のビールを一気に飲み干した。
 ひとしきり笑った安曇はハァーとため息をつくように笑いを収めて、カクテルグラスを手に取った。
「ホント、あんたたちいいトリオだわ。──あ、佐久間も入れたらカルテットか」
「なんじゃそりゃ」
「仲良いなって感心してんの」
 今の会話でなぜそう感じるのかはわからないけど、安曇は満足したようにうんうんと頷いている。
 反論するでも肯定するでもなく、俺たちはなんとなく言葉もなく黙り込んだ。三上が静かにグラスを傾けている。まるでさきほどの俺の動揺や安曇の反発も包容してしまうような、どことなく落ち着いた沈黙。
 ……照明の落とされた薄暗い店内。抑えたボリュームでBGMにエリック・クラプトンが流れている。本当に雰囲気のあるいい店なのだここは。
 やわらかく途切れた会話の間に静かに滑り込ませるように、ふと安曇が口を開いた。
「……三上くんってさ、なんか、ちょっと雰囲気変わったね」
「え?」
 三上は安曇の言葉に不意をつかれたようだった。ショットグラスを持ち上げた手を止めてぽかんと隣に座る安曇を見下ろしている。テーブルに肘をついてそんな三上を見やりながら安曇は微笑む。
「なんかちょっと柔らかくなった気がする」
「…………」
 普段は隙のない三上がとっさに返す言葉に戸惑い、グラスを口に運ぶでもなく所在なくまたテーブルに置き戻している。そんな三上の動揺を見て取って、安曇はさらに笑みを深めた。
「だって前はもっととっつき悪かったもの」
「そう、かな?」
「そうよ。ドライでクールで、……いつも傍観者か監督官みたいで」
「…………」
 なんとなく俺は口を挟めず、無意識にふところに入れた煙草を探している。
 安曇は静かに続けた。
「でも今はちゃんと中に入ってきてる気がする。……入ってきてるっていうか、入れてくれたっていうか。よくわからないけど」
 言い終えて三上に向けた彼女の眼差しはどこか優しく──安曇がそんな三上のことを好ましく感じていることまでも伝わってきて、俺は自分のことでもないのにじわりと胸に嬉しさが込み上げてくるのを感じた。だってやっぱり嬉しい。自分のコイビトのことを認めてくれる人がいるということは。にやけそうになる顔を引き締めながら、俺はそ知らぬ顔でカウンターに向かって三杯目のビールを注文する。
 三上は自分の動揺を落ち着けるように水割りを口に含んだ。ゆっくりとグラスをテーブルに置いて。
「……そんなふうに思われているなんて思ってなかったな」
 少しうつむくようにして笑う。
「俺は安曇にいつ叱られるかと思ってずっとヒヤヒヤしてたよ」
「なにそれ。私そんなお説教魔じゃないよ」
 アハハ、と陽気に笑い飛ばして、安曇は珍しく俺の煙草に手をのばした。見つけた煙草をそのまま差し出せば、ありがと、と軽い笑みが返ってくる。安曇はもともと喫煙者だが、今の彼氏ができてからなるべく喫わないようにしているのだ。ほんの時々飲み会の席で喫うくらいで。慣れた手つきで安曇は煙草に火をつける。ひと口喫って紫煙をゆっくりと吐き出した。
「そりゃあね。私も三上くんに言いたいことが全然ないってわけじゃないけど。……他人の話に首を突っ込むほど野暮じゃないし」
 きっとそれはつい最近三上が彼女の親友を振った、そのことを言っているのだろうとは俺にもわかった。本当は言いたいことがやまほどあるのだろうけれど、それを言わないのは彼女が当事者のことを尊重しているからだ。それがたとえ自分の親友のことであろうと、こと恋愛に関しては当事者同士のことについては口を出さない。そんな彼女のスタンスのとり方を、俺は心底スゴイと思う。
 安曇はきっと俺たちの中でだれよりも大人だ。──大人の女性だ。まあなりは小さいんだけど。
「……ホント、安曇ってカッコイイよね」
 思わずそう呟いていた。──ハア!? と安曇がイヤそうにこちらを振り向く。
「いきなりなに」
「いやマジで、安曇はホントいい女だと思う。俺、安曇には幸せになって欲しいなあ」
「意味わからない! てゆーか、なによこのタラシ!」
 一瞬絶句したあと、真っ赤になって安曇が叫んだ。
 なんだそれは。本気で俺は安曇の幸せを祈っているというのに失礼だ! と思ったら、俺の隣で三上が呆れ返ったかのようにため息まじりに頷いていた。
「本当にタラシだよね……、小嶋は」
「──だな」
 と戻ってきたばかりの酒井が椅子に腰を下ろしながら、三上に続けて同意する。
「てめえ話も聞いてないのに頷いてるんじゃねえよ!」
「小嶋がタラシかタラシじゃないかという話ならタラシだろ」
 それ以外になんの答えがある? と自信を持って言い返され、俺は素直に口をつむぐことにした。黙って煙草を口にくわえて火をつける。こういう話題が出たときは口を閉じるのが最良だ──と俺は三年の夏になってようやく学んだところなのである。

 ダラダラと俺たちは食事が終わっても飲み続けた。話は合コンから大学の授業の話になり安曇のハワイの土産話になり、ころころと変わりながらも飽きずに盛り上がり、結局終電の時間ぎりぎりまで俺たちは同じ店で飲み続けた。
 終電を気にした安曇が帰ると言い出したところで飲み会はお開きになり、会計では昨日パチンコで勝った酒井が半分くらい出してくれると言い出した。賭け事で儲けた金は次の元手にするかパーッと使うのが俺たちの信条なのだ。素直に俺たちは酒井の好意に甘えることにして、ゴチソウサマデスと酒井に感謝の意を捧げた。
 酒井の部屋は駅の南側のほうだし、安曇は電車に乗って帰ると言うし、俺と三上は駅の北側なので自然に駅で解散になる。酒井は飲み始めのころの沈んでいた様子などまるきり忘れてしまったかのような陽気さで、じゃあまたなと言って背中を向けた。か弱いかどうかはわからないけれどオンナノコである安曇に三上が「送っていくか?」と声をかけたが、それに安曇は笑って手を振った。
「駅、降りてすぐだから大丈夫」
 そう言って改札をくぐっていく。今日は四人だけだったこともあってだれも飲みすぎたり悪酔いしたりせずに、ちょうどよく酔っていた。自分でもほどよく気持ちよく酔っているのがわかる。なんだかすごく気持ちが高揚している。
 日付が変わる直前の、夜道。
 心地よい夜気が頬を撫でる。
 こんな時間でも駅前の通りは意外に行き交う人の姿があった。足早に帰路を急ぐOLや千鳥足のサラリーマン、小さなゲームセンターの前でたむろっている若者の姿……。二人と別れてから、なにも言わずとも俺たちは自然に俺の家に向かって歩き始めていて。
 ぼんやりと今日話した会話を思い返しながら、駅前の小さな繁華街を通り抜けた。
「……なんか。楽しかったな」
「そうだね」
 隣を歩く三上が相槌を打つ。俺は高揚した気分のまま続けた。
「なあなあ。絶対さあ、酒井ってその気になったら彼女なんかすぐできると思わない?」
「そうだね」
「結局、彼女をつくったり出会いを求めたりとかそういうアクション起こすのを面倒くさがってるだけなんだよなあ」
「……え? ああ、そういうのあるかもね」
 ──ん? とさすがに酔っ払っている俺もその三上の反応の悪さに気がついて首を傾げた。つい黙って三上の横顔を見やっていたけれど、そんな俺に構う様子も見せずに、三上はまっすぐ前を向いたまま歩を進めている。俺は少し戸惑いながらとりあえず会話を続けた。
「酒井、合コン、本気でする気なのかな、」
「さあ、どうだろう」
「……なんか、俺はあんまり、したくないけど、」
「そうだね」
「…………」
 俺は口をつぐんだ。三上の返事が素っ気ないのは気のせいじゃないだろう。
 隣を歩く様子は特に目に見えて不機嫌ということはないけれど……。俺との会話以外になにか気を取られていることがあるのか、それともなにか別の理由があるのか。
「三上?」
「……え? なに?」
 呼びかけに振り向いた三上は、まるで取り繕ったかのように笑みを浮かべる。その笑みにはいつものようなやわらかさや甘さが感じられなくて──俺は戸惑った。これはなんかおかしい気がする。
「……あの、三上サン、なんか怒ってる?」
「別に。そんなことないよ」
 四杯も五杯も水割を飲んだとは思えない、まるで素面みたいな顔をして、三上はさらりとそう返してくる。……まるでなんでもないかのような顔をして。えーと、と俺は考えた。……これはやっぱり怒っているんじゃないだろうか。いや、怒りじゃないかもしれないけど機嫌を損ねているのは確かで。
「ちょっと待って。え、なに。マジでわからないんだけど」
「怒ってないって別に。ごめん、今、ちょっと考え事していただけだから」
 慌てた俺の様子を見て、まるでなだめるように三上が苦笑を洩らす。
「でも、なんか──」
 ……三上はもともとそんなに感情を外に出さない。本心をそんな正直には言ったりしないのを俺は知っている。だけど四人でいたさっきまでは普通に冷静で朗らかでいつもどおりだったのに、二人きりになった途端コレというのは、つまり──俺に原因があるということで。
 俺は酔った頭でぐるぐると飲み会の席での会話を思い返しながら、その理由を探した。三上の言葉、声、そのときの表情……。どう考えても思い当たる節はひとつしかない。俺は恐る恐る三上の顔色を窺った。
「……もしかして、安曇のこと?」
「…………」
 返ってきたのは沈黙。それからため息。
 え、と俺は息を飲んだ。
「え、なに。ちょっと待ってよ。そりゃ安曇とは仲良いかもしれないけど、そんな今さらっていうか。──え? ってことは安曇と俺がとか、本気で本気に言ってたりするわけ!?」
 酔いが吹っ飛ぶくらいに俺は動揺した。確かに飲み会の席で含みのあることは言われていたけど、今までだって安曇のことだけではなくオンナノコとのことを揶揄されることは何度もあったわけで、まさか今の今まで尾を引いているとは思わなかったのだ。
 三上はそんな俺の動揺をよそに、同じ言葉を繰り返した。
「だから考え事していただけだから」
「そうじゃなくて!」
 会話を続ける気がない様子の三上に俺は思わず声を荒げている。
 そんな俺を見て、三上はうつむくようにして少しだけ笑った──まるでなにかをあきらめるような静けさで。
「……仲良いのは本当だろ。だから、別にいいんだ」
「全然よくないよ!」
 確かに俺と安曇は、仲間内の中でも特別親しいほうだ。入学当初から俺は安曇の小気味いいほどにハッキリサッパリした性格を気に入っていて、安曇も俺のこの適度に軽く適度に人懐っこい性格を気に入ったのか、わりとすぐに親しく話をするようになったのだ。以来、お互いに男とか女とかそういうことを関係ナシに話ができる相手として重宝している。……そう、知り合ってからもう二年半近くになるけれど、その間二人で食事に行ったり飲みに行ったりしたことだって何度もあるけれど、今まで一度だって色気のある雰囲気やシチュエーションになったことはない。
 そんなこと三上だってわかっているかと思っていたのに。
「……言っておくけど、全然そういうのはないんだからな」
「わかっているよ、だから気にするなって」
 間髪置かずに返ってきた三上の言葉がどれだけ本気なのか図りかね、俺はとっさに返す言葉を飲み込んでいる。
 三上の本心がわからない。
 俺が三上のことを好きだというのはわかってもらえているとは思うけど。安曇とは単なる友人なのだということもわかっていると思うけど。……三上の想いはそれとは別のところにある気がして。
 わからないのは、怖い。
 ……そういうのはイヤなんだ。だってなにかヘンな誤解をされていたりするのは、イヤじゃないか。
 俺は思わず三上の腕をがっしりと掴んでいた。強引に歩くのを止められて、困ったような顔をして三上が俺を振り返る。
「小嶋、」
「ちょっと待ってよ。あのね、本当にそういうことはなくて、今後も絶対なくて。……なんて言えばいいのかな、俺にとって安曇はオンナじゃないっていうか、オトコ友達っていうか、」
 安曇が聞いたら怒髪天をつく勢いで怒られそうなことを俺は口走っている。
「安曇は確かにまあいいオンナだしまあ客観的に見れば魅力的かもしれないけど、俺にとっては妹か姉みたいな感じっていうのかな。全然色気を感じないっていうか、そういう気持ちにならないっていうか。三上相手に感じるような気持ちは全然なくて、だから」
 自分の気持ちを適切に表す言葉がわからず、俺はただ思うままに言葉を続けている。
 こういうのはすごくもどかしい。俺はこういう言い訳というか説明が本当に苦手で、いつだって自分の想いを伝えることの難しさに戸惑う。もともと自分の意見をだれかに押しつける気もなければ、俺のことをだれがどんなふうに思おうがどう憶測しようが構わないから、いつもはそういう弁明に力を入れたりはしないんだけど。
 三上となれば話は別だ。三上には誤解されたくないし、俺の気持ちを理解してほしいと思うから。
 すがりつくように俺は三上の腕を掴んだまま、必死で言葉を重ねた。
「好きなのは三上だけだから、そういうのは三上だけだから」
「……そういうの?」
 三上は戸惑ったような、驚いたような表情で俺を見つめている。こんなふうに俺が必死になるなんて思ってもいなかったのかもしれない。
 でも俺は三上にはきちんとわかってほしい。きちんと気持ちを知ってもらいたい。……安曇を好きだと思う気持ちと三上を好きだと思う気持ちは全然違うのだということを。
「だから、そういう性欲の対象にならないっていうか。安曇相手にキスとかありえないって感じで。……違うんだ、全然違う。その、……キスしたいとか思うのは三上だけっていうか、そういうのを考えられるのは三上だけで」
 なにを言っているんだろう。自分でもヘンなことを言っているとはわかっていたけれど、口は止まらなくて。酔いも手伝っているのか俺は感情に流されるままに胸の想いをまっすぐ三上にぶつけていた。
「三上だけだから。俺、だから──」
「……本当に、」
 不意に三上が苦笑めいた吐息を洩らし、どきりとして俺は顔を上げていた。
 見やった三上は、どこかあきらめたような笑みを浮かべて。
 俺を見つめていて。
「小嶋には、本当に──叶わないな」
 ため息まじりのその呟きはどこか甘く耳に届いた。え? と思ったときには三上の腕に肩を抱き寄せられ、俺はあっという間に道の脇に引き寄せられていた。電信柱の陰に追いやられ、両腕で腰を抱きしめられて、気がつけば三上の熱っぽい眼差しに見つめられていて。……まるで鼻先が触れるような近さで三上が、囁くように問い返した。
「──で、なに?」
「なにって、み、三上」
 突然の抱擁に俺は呆然としてしまっていて。ただ三上の腕の中で、動揺に胸を喘がせていた。
 話をするには近すぎる。……というか、夜道でひと気もないとはいえ、こんな往来でこの格好はまずいだろう。いつどこでだれに見られるかわからないっていうのに。すごく、マズイだろ──。
 けれどそんな俺の想いはお構いなしに、しっかりと腰を抱いたまま三上が意地悪な笑みを浮かべて、聞き返してくる。
「俺だけに……なんだって?」
「……だから、」
 三上が俺になにを言わせたいのかはすぐにわかった。酔いではない熱がカアッと顔にのぼっていく。促され、さきほど告げた言葉をもう一度口にしようと唇を開けば、なんだかまるでキスをせがんでいるようで。
「だから、……キスとかは、三上とだけしか、したくな──、」
 三上は最後まで言わせてくれなかった。
 先の言葉を奪うように唇を、ふさがれて。
「ん……っ」
 とろりと舌が口腔に入ってくる。あ、ヤバイ。俺は思わず目を閉じて三上の背中にしがみついていた。もう何度も交わしたはずなのに、たまらなく甘い三上のキスにぞくぞくと背筋に震えが走り、全身の力が抜けた。吐息が飲み込まれる。されるがまま舌を優しく絡めとられ、奥の奥まで探られて。何度も何度も角度を変えて唇をむさぼられた。
 もう一人で立っていられないくらいに唇と舌で、責められて。
「……っ、も、」
 俺は腰を支えられたまま、力の入らない手でなんとか三上の胸を押した。
 離れる唇の濡れた感触が生々しく──いっそう羞恥を煽る。俺は顔を真っ赤にさせたまま、三上に噛みついた。
「……っ、あの、あのねえっ、ここ、外、ていうかこんなところで、おまえ」
「小嶋があんまり可愛いこと言うからだろ」
 平然とそんなこと言うし。──それはまさにいつもどおりの三上で。
「だってそれは三上が、」
 言い返してやろうと口を開いた途端、三上が俺を抱きしめたままその肩に額を押し当ててきて、俺は思わず言葉を途切らせた。
 肩に重い吐息が落ちる。……どこか切ないため息。
「──三上?」
「……友達として。そうわかってはいるけど。……俺は、不安だよ」
 声は静かに三上の胸の内を告げた。
「いつだって仲良しで、気が合ってて、二人で一緒にいてもすごく自然で。……本当になにもないのはわかっているけど、それでもやっぱり不安なんだ」
「三上……、」
「……二人で一緒にいるのを見るのは、正直、すごく苦しいよ」
 かすれた声が、小さく低く、俺に届く。
 その声の切なさにずきりと胸が痛んで、俺は胸を押さえていた。抱きしめる腕の強さ、肩に触れる重い吐息……。もしかして、と俺は思った。もしかして三上はもうずっと安曇に嫉妬していたのだろうか。俺と特別に親しいオンナノコ。多分俺と一番親しいオンナノコに。彼はずっと、もう長いこと嫉妬していたのだろうか。
 わかっていてもどうしようもない嫉妬の心。
 ──それは独占欲にも似て。
 ああ、と俺は嘆息を洩らした。どうしよう。切なく胸が締めつけられる。独り占めしたい──その想いの強さ。苦しいと告げる、その熱情の重さ。それは、なんだかすごく切ない。でもどこか誇らしくて──嬉しくて。
 すごく嬉しくて。
 俺は背中にしがみついていた腕をのばし、そっと三上の髪に触れた。やさしく撫でるように髪に指を絡ませて。
 三上がその仕草に気づいて顔を上げた。そっと落とされた息が頬にかかり、切なげに眇められた眼差しが問うように俺を見つめる。そんな視線ひとつにこんなにも心が震えている。
「……ばか。もう、俺、どうしたらいいの」
 たまらず俺はそんなことを呟いていた。
「小嶋?」
 訝しげに三上が耳元でそう名前を呼んで。その声ひとつに、俺の胸は高鳴る。
「そういうの、なんかすごく──嬉しい、かも」
 嬉しいなんて本当は言ってはいけないのかもしれないけど。高ぶった熱い想いが胸からあふれる。
 ああ、もう本当に──。
「──……好き。すげー好き。なんかもうわけわかんないくらい好き。三上のこと、好き」
「────」
 突然の告白に、三上は息を飲む。
 ……いつだってクールなふりして、嫉妬したり不安に感じたり意地悪をしたり。本当はすごく臆病だったり。独占欲で胸を焦がしたり。
 そんな三上のことを俺はたまらなく愛しく思う。
 心の底から、愛しく思う。
「……ばか」
 どこか甘く、詰るような三上の囁きが耳に吹き込まれると同時に、腰を抱かれる腕に力がこもった。愛撫するような優しさでそっとこめかみに三上の頬が触れる。──俺はその腕の力強さと触れるぬくもりにほっと身体をゆだねた。
 三上のかすれた声は耳元で小さく笑った。
「あんまり可愛いことばっかり言うんじゃないよ」
「ん……、」
「すごく、いじめたくなるだろ……?」
 その含み笑いのまじった低く艶っぽい声に一瞬聞き惚れて。それからハッと我に返って俺は身体を起こしていた。目の前で悪戯っぽく笑う三上を睨めつける。
「……なんでそうなるんだよっ」
「じゃあ、どう、されたい?」
「どうって……そ、れは、」
 反対に問い返された、蠱惑的な甘い囁きに俺はうろたえる。
 どうってそんなの──決まってるだろ。
 そんなの、決まってる。
 俺は腕をのばして三上の首を抱き寄せた。そして三上の耳に囁き返す──三上の意地悪に負けないくらい、甘くねだるように。
「もっと──……」
 もっともっともっと。……ずっと。
 好きでいて。
 ──返ってくる言葉はなかった。その代わりに三上の腕が強く強く俺の身体を抱きしめて。それからゆっくりと唇が落ちてきた。